GoGokongのラクガキ帳

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殺人犯の正義 雑誌の感想 文藝春秋2020年5月号(2)

2016年7月に発生した「相模原障害者殺傷事件」の報道で、日本中に衝撃が走った。この事件とは、障碍者福祉施設の職員が入所者を包丁やナイフで刺して回った。死亡者は19人、負傷者は職員を含めて26人となった。3月16日に植松被告は、死刑を言い渡された。

本誌に掲載された『植松聖からの手紙』では、障害者の娘を持つ筆者が被告と手紙や面会を通してこの事件の考察している。

被告は「正気」

 凄惨な事件の報道では、ほとんど決まって犯人の異常性を強調する。この事件が起こったときも、例外ではなかった。しかし、筆者は手紙や面会を経て被告のことを「正気」だったと最初に述べている。では、なぜこのような事件を彼が引き起こしてしまったのか?筆者は、以下が背景にあると考えた。

社会資源を注いでも見返りのない高齢者あ重度障碍者を「社会の敵」と見なしかねない今の社会の風潮が色濃くでていると私には感じられました。

被告の動機

事件を起こした動機は何だったのだろうか?それは、被告の独善的なロジックだった。被告は、「重度障害者は殺したほうが良い、生きていても仕方がない」と述べている。

被告から受けた手紙でも、「国債(借金)を使い続け、生産能力のない者を支援することはできませんが、どのような問題解決を考えていますか?」と筆者に重度障害者に対する考えを伝えていた。 

要するに、自分のことを自分でできない人間が生きることは、まわりの人間にとって害であり、よって悪であるという考えだ。この考えは、筆者との手紙のやり取りや面会を経ても最後まで変わっていない。

原因は?

筆者は、被告がこの考えをもつに至った要因として、経済合理性や生産性を至上とする現在の社会の風潮を挙げている。

その上で、(障害者を含めた)人との共生、互いに頼り頼られる関係は別の価値があることを述べている。

私もこの考えには納得した。人生は、合理性だけで片付けられるほど単純ではない。たしかに、仕事では合理性は大事だが、仕事以外にもたくさんの出来事が人生には存在する。

私は、この筆者の考えに加えて次のことが原因にあるのかもしれないと考えた。それは、被告が重度障害者と共通する部分を見出したからではないのかということだ。人はある境界線上に存在するとき、より強くそのことを意識する。例えば、補償問題や民族問題などの当事者となると、そうでない人に比べて強くそのことを意識する。

被告は、尋常でないほどに障害者を憎んでいる。その背景には、先ほど述べた生産性至上主義の現代に適合できない「自分のことを自分でできない人への侮蔑」がある。やがてこの感情は、職場での障害者との交流によって彼らと自分との共通点を見出したことで、自分自身にも向けられるようになった。その結果、「自分は彼ら(障害者)とは違う」と言い聞かせるようになり、余計に障害者を憎むようになった。

もちろん、以上のことは完全に私の推測だ。もっと事件の背景を分析されるべきだと思う。だが、裁判ではこの事件の背景はわからなかった。

次も有りうるのか

私には、障害者を多数刺し殺すまで憎しみを抱く過程が、普通に生活して持つようになるとは思えない。だからといって、被告が異常だったと片付けたくもない。しかし、裁判は終わった。あとは被告の死刑執行が残るだけだ。これ以上、事件の背景が明らかになるのはむずかしいだろう。

事件が起こった当時、ネット上では被告をヒーローのように称える者や同情する者がいた。彼らは、面白半分だったのか、それとも本気でそんな行動をとったのか。もし後者だった場合、彼らは被告と同じ道をたどるのか。それを探ることは、もう出来ない。